あなたが好きなことを仕事にするべき理由

まあお仕事なんて基本的に大変なことでこざいますから、好きでもないことのために大変な目にあうだなんて、しかもそれが40年近く続くだなんて、少なくとも私は耐えられません。というか耐えられなかった。

人間が大変なことを何とかこなそうとする時に原動力となるもの、動機付けは何だろうか? 私は専門的なことは分からないのだが、外的動機付けと内的動機付けに大別できるらしい。

外的動機付けの古典的な例が、給与アップやボーナスや出世といったインセンティブを与えるものだ。一方、内的動機付けは例えば「面白い仕事だ」とか「社会的に重要な、意義のある仕事だ」とか、そういった感じのものだ。

外的動機付けは、単純なルールと明確なゴールで構成された仕事――いわばルーチンワーク的な仕事では効果がある。高い報酬を提示することで、高いパフォーマンスを発揮する。その反面、ルールが曖昧だったり、ゴールが明確ではない仕事では、外的動機付けは機能しないどころかパフォーマンスを低下させてしまう。その場合は内的動機付けのほうがパフォーマンスを発揮する。*1

外的動機付けが効果を発揮するのは、ルーチンワーク的な仕事だ。残念なことに、この手の仕事は日本国内では減っているように思う。もともと「工場の海外移転」のように物価の安い国への移転があった上に、通信インフラの発展で「ネット経由で海外の会社にアウトソーシング」という選択肢もできてしまった。仕事の量が減ればその仕事に就ける人は減る。その上、単価の安い海外との競争で報酬が減るだろうから、そもそも外的動機付けとなる報酬を提示できなくなるだろう。価格競争で利益が減り、報酬が減り、パフォーマンスが低下し、仕事の質が落ちることで会社の競争力が低下し、利益がさらに減る。負のスパイラルに陥る可能性がある。

外的動機付けには別の欠点もある。その報酬に魅力を感じない人には、効果が低い。

30代半ばから下の世代は、10代になるかならないかの頃にバブル崩壊したか、もしくは生まれた頃から不景気だった。多感な頃には不景気で、例えばバブル世代的なロールモデルは周囲になかった。とはいうものの、社会人になるまでお金はなくとも圧倒的に貧乏という訳ではなく、そこそこ生活できていた人は多いと思う。自分はそこそこで、友人もそこそこで、周りの大人も(不景気なので)そこそこで生活していた。で、そこそこで生活できてしまっていた。家計の理由で進学を諦めた人も多いと思うが、少なくとも大学に進学できた人は、この「そこそこ」な人たちが多いと思う。

そりゃあ、給料が多いにこしたことはないし、ボーナスも出してくれるのなら嬉しい。しかし「そこそこ」でそれなりに楽しく生きていきたし、周囲も「そこそこ」で生きてる。それで困ったことがなかった訳ではないが、大きく困ったことはない。そうなると、報酬というものが外的動機付けとなりにくいものになってしまう。のどから手が出るほどのものではないからだ。まあ、親の世代がのどから手が出るほど欲しがっていたけど手に入れられなかったのを見ているので、もとより期待していない面もあるのだが。蛙の子は蛙だ。

実際のところ、将来のことを考えると給料そこそこでは非常に困る。例えば今の物価水準で今の給与で今の年金制度が維持されて且つ支払い開始が65歳のままだと仮定するとして、60〜90歳までの30年間を慎ましく月平均20万円で生活するとしても7200万円ぐらいかかる。年金が今の水準で支払われると大甘に仮定するとしても、60歳の定年までに3000〜4000万円は貯めておく必要がある。今の給与では(いくら支出を絞っても)無理ならば、収入を増やさなくてはならない。しかし人間の自制心は現在と未来を同列に扱ってはくれないのだ*2

この「そこそこ」の人たちの割合は、正直なところ分からない。(私を含む)こういう人たちが大多数だとは思わないが、ある一定の割合は存在しているのではないかと思う。正しく書くなら、昔から存在していた(のではないかと思う)が、若年層に近づくにしたがってその割合が増加しているのではないか、それも「大学進学→就職活動→新卒や第2新卒枠で入社」という経路で社会に出てくる人の中で。

あと、これは私見というか妄想になるのだが、日本的な職場環境として「ルーチンワークのようでルーチンワークでない仕事・職場環境」が実は多いのではないかと思う。ルーチンワークではないから、高いパフォーマンスを発揮するには内的動機付けが有効で、しかも今まで暗黙の内的動機付けでうまいこと回っていた、という考えだ*3

例えば製造現場での伝統的なQC活動を見ていると、一見してルーチンワークのような仕事のようでも*4、実際には作業工程を1つとっても試行錯誤を経て良く練られていたりする。この試行錯誤は、かつては実際に現場で作業していた従業員が担っていたはずだ。試行錯誤の過程はルーチンワークではない。

QC活動は直ちに報酬に結びつくものではなく、例えば年間を通じて最も評価が高かったものに金一封が出るとか、その程度が多いはずだ。ではQC活動の原動力は何だったのか? 「かつての日本的経営において、会社は従業員にとって共同体的な役割を果たしていた」というような言説がもし正しかったとしたら、「仲間からの賞賛」だとか「共同体への貢献」という内的動機付けが原動力となっていた可能性が高いように思う。

この仮定が正しいとして、残念ながら私たちは会社が共同体たりえないことを知ってしまった。だからだろうか、私ぐらいの世代以降では「会社への貢献」が内的動機付けにならないことが多いと思う。

ここまでの私見をまとめると:

  1. 報酬という外的動機付けが有効に働く仕事が減っているし、競争によって外的動機付け(報酬)の確保が難しい状態になっている。
  2. そもそも若い世代にとって報酬が外的動機付けとなりにくい可能性がある。
  3. そもそも日本の職場は「会社という共同体への貢献」という内的動機付けに支えられるところも大きかったが、その構図が崩れてしまった。しかし組織の仕組みそのものは何らかの内的動機付けを要求する構造のままである――という可能性がある。

例外も多々あると思うが、これらの仮定が正しかったとしよう。私は、自身の失敗経験もあり、自分自身の仕事への動機付けとして外的動機付けには悲観的だ。

外的動機付けが駄目なら、内的動機付けに重点を置くしかない。「好きである」ということは、仕事の内的動機付けとなりうる。

例えばベンチャーを立ち上げて、月10万円台前半ぐらいの給料で、激務でも悲壮感なく仲間と突き進んでいけるのは、何かしらの内的動機付けによるところが大きいのではないか? それは使命感かもしれないし、「これはイケる」という予感かもしれないし、面白いから・好きであるからかもしれない。内的動機付けは、思わぬヤル気を引き出す可能性がある*5 *6

別に「面白い仕事だ」とか「社会的に重要な役割だ」でも、内的動機付けになるのなら何でもよい。ただ、その1つとして「好きな仕事だ」があるから、もし自分の心の中に他の内的動機付けがみあたらないのなら、好きなことを仕事にしてしまえばよい。

「好きなことを仕事にする」といってもおおむね2分できる。ひとつは最初から好きなことを仕事にするスタイル。もうひとつは仕事の中に好きなことを見出すスタイルだ。

そもそも大半の学生にとって仕事は「謎の物体X」だ。実際に関わってみなくては分からない点が多々ある。色々と分かってくることで、面白さや好きな部分が見えてくることもある。だから最初から「好きなこと」にこだわる必要はない。

ないのだが、精神的にボロボロになる人が続出するシューカツを考えると、何かしら内的動機付けをもって臨まないと厳しいのかな、とも思う。私は就職活動もせずに大学卒業後しばらくバイトもせずふらふらしていた人なので、よく分からないのだが。

20歳前後で社会に出るとして、定年までおおよそ40年。その間、病める時も健やかなる時もつまらなさそうな顔して困難に耐え続けるよりも、面白いことや好きなことで苦労しながら険しい山を登るほうがマシだ。私はそう信じている。

*1:やる気に関する驚きの科学より。

*2:自制心について参照。

*3:この仮定が正しいのなら、日本の企業が海外へのアウトソーシングで失敗する原因のうちの1つが「実はその仕事はルーチンワークのようでルーチンワークでないから」というものになる。また「正社員と派遣とで作業内容は同じだけど賃金が――」的な現象が起こる背景として「実はそれルーチンワークじゃない」的な面も多少あることになる。

*4:これは偏見だ。

*5:その反面、例えばそのベンチャーに後から入った人が、ベンチャー内に充満しているだろう内的動機付けに共感できなかった場合、激務と給料の安さその他から、そのベンチャーは「ブラック」認定されるだろう。まあ小所帯ゆえに会社組織として未成熟で、法律的にNGなことを知らずにやってしまっている面もあるだろうけど。

*6:内的動機付けに関しては、「ディズニーのバイト == ブラック」的な言説で語られている内部事情にも影響している気がする。